忘れられない思い出を語るラグビー部OB会「ノーサイドクラブ」会長・日比野さん |
ノーサイド――ラグビーの世界には、試合が終われば、敵も味方もない。
東海高校ラグビー部OBでつくる「ノーサイドクラブ」会長の日比野兼昭(52)(愛知県瀬戸市)らには、忘れようにも忘れられない出来事がある。
それは、一九六四年十月三十一日、旭丘高校との練習試合中に起きた。スクラムが崩れたはずみに、二年生フォワードの天野保(54)(同県扶桑町)が頭を強打し、近くの外科医院に運び込まれた。
けいつい損傷。名大病院で手術を受けたものの、天野は一時生死の間をさまよい、下半身不随の身となった。
ラグビー部は、その二年前に発足したばかりだった。「ルールも戦術もよくわからないまま練習した」と振り返るのは、設立時のメンバーの一人、水野康次(56)(名古屋市北区)である。
まずユニホームを作ろうと、家業が染色業の部員に頼んで、全員の体操着、短パン、ストッキングを真っ黒に染めた。ラガーマンのあこがれ、ニュージーランド代表の「オールブラックス」にあやかったつもりだった。
しかし、その格好で試合に出て、大会関係者にしかられた。県内最強豪、西陵商のユニホームと同じ色だったのだ。
チームはなかなか勝てなかった。初勝利は、翌年の新人戦での、対菊里戦。水野にとってもこの試合は、公式戦で唯一のトライを決めた思い出の試合となった。
水野らは卒業後、母校に大学ラグビーの練習のノウハウを持ち込んだ。そのかいあって、チームは後輩の日比野が二年生だった六七年の県新人戦の尾張地区大会で、初優勝を果たした。
闘病中の天野保さん(江南市の病院で) |
その間、天野はリハビリに懸命だった。「いつかは治る」との思いで。
名大病院での入院は、八年近くに及んだ。チームメートはもちろん、試合相手だった旭丘の元ラグビー部員らも何度も見舞いに訪れた。
「仲間が大学に進み、背広を着た姿を見た時はショックを受けた」と天野はいう。しかし、その後、仲間らが結婚し、子供を連れて訪れると、自分のことのようにうれしかった。
退院後、天野は車いす生活のまま、一時、家業の布地卸業も手伝った。八九年、そんな天野を励まそうと、水野らの呼びかけでOBらが犬山市のホテルに集まった。それから毎年十一月の第一日曜日に、天野の自宅で再会することが恒例となった。
愛知大に進んでラグビーを続けた日比野は、卒業後、名古屋の社会人クラブチーム「トップギヤー」で活躍した。今は瀬戸市内で、その名も「ノーサイド」というステーキハウスを営む。
日比野は「十年ぶりに会っても『おい、おまえ』の仲でやれる」と、ラグビー仲間の気安さを説く。「天野君を励ましにいくと、逆に励まされる。これだけ頑張っているという姿に感動する」と話すのは水野だ。
事故から三十七年たった今も、週三回人工透析を続ける天野は、「十七歳で止まってしまったような人生だけれど、ラグビーをしたことに、まったく悔いはない」と話す。
ラグビー部OB、現役 新春に交流戦
日比野兼昭さん(後列右から2人目)と現役時代のチームメート |
ラグビー部OBは、一月三日に名古屋市内のグラウンドで必ず顔を合わせる。そして現役部員のチームと試合を行い、再会を喜び合う。
試合ではOBが層の厚さを生かし、現役を圧倒することが多い。今年は大雪のため、試合は断念したが、懇親会は盛大だった。
「ノーサイドクラブ」初代会長を務めた水野康次は、江戸時代から続く名古屋市北区の造り酒屋「金虎(きんとら)酒造」を継ぐ。懇親の場には、いつも自前の酒を持っていく。酒造りがない夏場に、仲間を集めて酒蔵コンサートも始めた。空のタンクが独特の音響効果を生む。
部の創設時から顧問を務めた伊東達男(62)(名古屋市緑区)は当時、駆け出しの教員で、専門は柔道だった。
「目標が全国制覇で、勝つことが至上命令だった柔道部とは違って、ラグビーは、生徒の自主的なクラブ。伸び伸びと楽しくやれた」と振り返る。息子の達矢(38)も東海の教員で、親子二代、ラグビー部顧問を務める。
水野と同期の森行廣(六四年卒)は、名古屋市立くすのき学園で情緒障害児らの治療に当たる。「OBがまとまれたのは天野保のお陰だろう」と話す。一年後輩で、卒業後も部の合宿などで指導した名古屋鉄道人事部長の深草裕典(六五年卒)は、名鉄のラグビー部を育てた。
天野を励ます仲間は、ノーサイドクラブとは別に「マルベリー会」をつくる。天野の自宅前に広がっている桑畑から名付けた。
同期で会の幹事を務める恵那東海理化生技部長、春日井幹雄(六六年卒)は「僕か彼か、どちらかが倒れるまで幹事を続ける」と言い切る。(文中敬称略)
(渡辺 浩平)
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